ガレリア・イスカ通信

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2014年 06月 25日

サウル・スタインバーグのポスター「Whitney Museum of American Art」(1978)

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描かれている内容よりも描くという行為を強く感じさせる絵画をアクション・ペインティングと呼び、アメリカにおける抽象表現主義を理論的に擁護した美術評論家ハロルド・ローゼンバーグ(Harold Rosenberg, 1906-1978)が最晩年の1978年にキュレーションに参加したサウル・スタインバーグ(Saul Steinberg, 1914-1999)のホイットニー美術館(Whitney Museum of American Art, New York)での回顧展『Saul Steinberg』の告知用ポスター。原画は1974年に制作されたドローイング(註1)。抽象表現主義の擁護者であったローゼンバーグが、なぜ正反対とも思えるスタインバーグの作品を評価したのかは、彼がスタインバーグについて語った言葉:
Steinberg is a milestone that can never been classified in art history. When you see many of his works, first you can think he is the best illustrator ever. Excellence in his lines would make you miss the point that he is more than a caricaturist; an illusionist, philosopher, a writer using not words but lines.
に見ることができる。ローゼンバーグは1960年代からスタインバーグの批評を行なっており、この展覧会の図録(註2)のテキストも担当している。漫画家としてまたイラストレイターとして幅広く活躍したユダヤ系ポーランド人のスタインバーグは1914年にルーマニア南東部の小さな町《Ramnicul-Sarat》に生まれる。1932年にブカレスト大学に入学し、哲学と文学を学ぶも、翌年、ミラノの《Politecnico》に建築科の学生として入学、1933年、学業の間を縫って、ミラノの隔週発行のユーモア新聞《Bertoldo》に漫画を発表、1940年にはアメリカの雑誌『ライフ(Life)』や『ハーパーズ・バザール(Harper’s Bazaar)』にドローイングが掲載される。その年、建築科を卒業。1941年にイタリアを経ち、リスボン経由でニューヨーク市に到着、翌年移民申請を行ない、海軍に入隊、1943年にアメリカ市民となる。1950年には、ローゼンバーグなどが推す作家の展覧会を開催したベティ・パーソンズ・ギャラリー(註3)で個展を開催している。スタインバーグの線による作品、その最良のものは1950年代半ばまでに制作されたものであるが、それらの作品を収録した作品集は高価であるため、1955年にパリのガリマール書店から刊行された作品集『Steinberg Dessins』(註4)がお勧めである。

●作家:Saul Steinberg(1914-1999)
●種類:Poster
●サイズ:914x610mm(36x24 inches)
●技法:Offset
●発行:Whiney Museum of American Art, New York
●制作年:1978

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                     イメージ左下
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             イメージ右下。用紙の表面には、簀の目紙(laid paper)特有のテクスチュアーが浮き出ている。
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ポスターの印刷には、製紙工場の透かしの入ったクリーム色の簀の目紙(laid paper)が使われている。


註:

1.
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スタインバーグの回顧展の図録(下記参照)より

2.
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                表紙
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                裏表紙
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                扉
サウル・スタインバーグの1940年代後半から1978年までの作品による回顧展の図録:『Saul Steinberg(サウル・スタインバーグ)』1978年、発行:Alfred A. Knopf, New York, 著者:Harold Rosenberg、図版:274点(内64点はカラー)、266x273mm、256ページ。

3.1900年、ニューヨーク市の裕福な家庭に生まれたべティ・パーソンズ(Betty Parsons, 1900-1982)は1913年、アーモリー・ショウを訪れ、現代美術に驚嘆、両親の反対を押し切って絵画を学び始める。1919年に結婚するも三年後に性格の不一致が原因でパリで離婚。そのままパリに滞在し、私立のアカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエール(Académie de la Grande Chaumière)でブールデルやザッキンに付き、彫刻を学び、夏の間はアーサー・リンゼイに絵画を学ぶ。1933年、大恐慌により所持金を使い果たし、アメリカに帰国、彫刻を教えながら各地を旅する。1936年、ニューヨーク市に戻り、最初の個展を開催。その後20年間で9回の個展を開く。個展を開催した画廊や別の画廊で働いた後、1940年、彼女自身が運営を任された画廊で働き、何人もの現代美術の作家と契約することとなる。その中にはサウル・スタインバーグ、アドルフ・ゴットリーフ(Adolph Gottlieb)、アルフォンソ・オソリオ(Alfonso Ossorio)、ジョセフ・コーネル(Joseph Cornell)などがいた。上記の図録によると、スタインバーグは1943年に最初の個展を彼女のところで開催したとある。1946年、ニューヨークに自身の名を冠した画廊を開き、1948年までにアメリカの抽象表現主義を語る上で欠かすことの出来ない、彼女が“ヨハネ黙示録の四人の馬乗り(four horsemen of the apocalypse)”と呼ぶバーネット・ニューマン(Barnett Newman)、ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)、マーク・ロスコ(Mark Rothko),クリフォード・スティル(Clifford Still)の四人の画家と契約しており、スタインバーグも1950年に個展を開催している。ニューヨークのアートシーンに大きな足跡を残したべティ・パーソンズ画廊は1981年に35年の活動に終止符を打ち、その翌年パーソンズは亡くなる。

4.
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スタインバーグがパリに移住した1955年にガリマール書店から刊行した作品集「Steinberg Dessins」。スタインバーグの代表作である『All in line』(1945, Duel, Sloane & Pearce, New York)、『The art of living』(1949, Harper & Brothers, New York)、『The passport』(1954, Harper & Brothers, New York)所収のドローイングを中心に約250点のドローイングを収録。314x233mm、約200ページ、仏語。限定:5059部





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by galleria-iska | 2014-06-25 19:56 | ポスター/メイラー | Comments(0)


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