2015年 06月 09日
ポップ・アートの画家で彫刻家のラリー・リヴァース(Larry Rivers, 1923-2002)がプロのジャズ・ミュージシャンだっとは気付かなかった。しかもジャズ・トランペット奏者マイルス・デイヴィス(Miles Davis, 1926-1991)の終生の友であったとは。 ラリー・リヴァースは1923年、迫害(ボグロム)を逃れてアメリカに移住したであろうウクライナ系ユダヤ人の両親の下、"Yitzroch Loiza Grossberg"としてニューヨーク市のブロンクスに生まれる。リヴァースの人生はジャズへの興味から始まり、17歳の頃にはプロのジャズ・サキソフォン奏者となり、自身のバンドを率いていた。地元の酒場で、バンドを"Larry Rivers and the Mudcats"と紹介されたことから、ラリー・リヴァースと改名する。1942年に陸軍航空隊(the United States Army Air corps)に入隊するが、1943年病気で除隊。1944年から45年にかけてニューヨーク市のジュリアード音楽院(The Juilliard School of Music)で音楽理論と作曲を学ぶ。そこで19歳のマイルス・デイヴィスと同級生となる。1945年、仲間のジャズ・ピアニスト、ジャック・フレイリシェール(Jack Freilicher) からジョルジュ・ブラックの絵画作品を見せられ、また、その年にキュビストの作品を見たことが切っ掛けとなり、絵を描き始める。1947年から48年にかけてマサチューセッツ州のプロヴィンスタウンにあった抽象画家で教師のハンス・ホフマン(Hans Hofmann, 1880-1966)の美術学校で学ぶ。その後、ニューヨークに戻り、1948年から51年までニューヨーク大学で学び、学士号を得る。リヴァースは1949年に早くも最初の個展を ジェーン・ストリート画廊(Jane Street Gallery )で催している。1950年、詩人のフランク・オハラと出会い、その年にヨーロッパに旅行。八ヶ月間パリで詩を読んだり、書いたりして過ごす。オハラとは互いに刺激し合い、幾度となくコラボレーションを行ない、友人関係はオハラが亡くなる1966年まで続いた。1952年にはオハラの劇「Try! Try!」の舞台セットのデザインなどを行なっている。1954年、彫刻による最初の個展を、抽象表現主義の名だたる作家を招いた展覧会(1953年~1957年)を開催していたニューヨーク市のステーブル画廊(Stable Gallery, New York)で開催。ステーブル画廊は1960年代に入るとポップ・アートに路線を変更、アンディ・ウォーホルやロバート・インディアナなどの展覧会を次々に開催する。 リヴァースは1957年、1943年にアメリカに移住したロシア系ユダヤ人のタチアナ・グロスマン(Tatyana Grosman, 1904-1982)によって設立されたばかりの版画工房ユニヴァーサル・リミテッド・アート・エディション(Universal Limited Art Editions)に最初の招待作家として招かれ、フランク・オハラの詩とのコラボーレーションである13点のリトグラフからなる「Stones」の制作を始める。1960年に完成。その間、テレビのクイズ番組で大金を手にし、マイルス・デイヴィスがパリでルイ・マルの初監督の映画『死刑台のエレベーター』の音楽を即興演奏で録音し話題となった翌年の1958年に再びパリに一ヶ月間滞在、幾つものジャズバンドに加わり、演奏を行なう。 そして1965年、1950年から1965年にかけて制作した170点の絵画、素描、彫刻、版画からなる最初の回顧展を開催、全米5ヶ所の美術館を巡回、その最後の開催地であるニューヨーク市のジューイッシュ美術館(The Jewish Museum)での展覧会に合わせ、リヴァースはユニヴァーサル・リミテッド・アート・エディションでオリジナル・デザインの告知用ポスターを制作している。これは、その文字入れ前の刷りである。このポスターで、リヴァースは六つのパネル(フレーム?)を使い、上から順に1950年から65年までの代表作を描き入れている。そして未来の作品が入る七番目のパネルには《1966?》という文字だけを書き込んでいる。リヴァースは既にポップ・アートの時代に突入しているが、どこか未だ抽象表現主義風の雰囲気を纏っているように見える。 ●作家:Larry Rivers(1923-2002) ●種類:Poster ●サイズ:891x588mm ●技法:Lithograph ●限定:1000 ●発行:Universal Limited Art Editions(ULAE), Long Island, West Islip, New York ●印刷:Universal Limited Art Editions(ULAE), Long Island, West Islip, New York ●制作年:1965 註: 1.タチアナ・グロスマンは、年譜によると、1904年、ロシア系ユダヤ人の両親もとに生まれる。1918年に家族と共に日本に移住、東京の学校に通う。その後、ヴェニス、ミュンヘンで過ごし、ドレスデンに居を構える。タチアナはドレスデン美術大学(Dresden Academy of Fine Arts)で主にデッサンと服飾を学ぶ。1931年、画家のモーリス・グロスマンと結婚、1933年からパリに住む。1940年、ナチスのフランス侵攻を前にパリの脱出、ヨーローッパの転々とし、スペインに辿り着く。1943年、ナチスの追求を逃れるため、ニューヨークに旅行、移民となる。生活のために夫のモーリスとロングアイランド、ウエスト・アイスリップのコテージで有名画家の絵画複製の仕事をしていたが、1956年、夫のモーリスが心臓病で倒れる。タチアナは生計を支えるために挿絵本の出版を始める。ニューヨーク近代美術館のキュレーター、ウィリアム・リーバーマン(William Lieberman, 1924-2005)に、興味があるのは、複製ではなく、オリジナルの版画作品であると告げられてすぐ、庭先でババリア産の石版石をふたつ見つける。その足で近所からリトプレス機を手に入れ、田舎の印刷工に装置の使い方を説明してもらう。そして、複製を作り続ける代わりに、画家と作家に両者のコラボレーションによる作品制作を勧め、作品の出版者の役目を果たすことを決意する。そしてその最初のコラボレーションがラリー・リヴァースとフランク・オハラの詩による「Stones」である。それを皮切りに、サム・フランシス、ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・マザウェル、ロバート・ラウシェンバーグ、ジム・ダインらの作品を手がけ、アメリカにおける版画復興の火付け役となる。1966年には全米芸術基金(NEA)からの助成金で、エングレーヴィング、ドライポイント、メゾチント、エッチング、アクアチントによる版画制作を行なうインタリオ(凹版印刷)のスタジオを設立している。
by galleria-iska
| 2015-06-09 21:19
| ポスター/メイラー
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