ガレリア・イスカ通信

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2016年 12月 18日

エドヴァルド・ムンクのモノグラフ「Edvard Munch von Curt Galser」(1917)

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ターバンを巻いた少女を描いた「真珠の耳飾りの少女」(1665年頃)がいつの間にか17世紀オランダの画家ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer, 1632-1675)の代名詞になってしまったように、19世紀末の自己の主観的経験す基づく象徴主義的な作品により、ドイツ表現主義の影響を与えたノルウェーの画家エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch, 1863-1944)と言えば、昨今は面白キャラクター扱いにされてしまった感のある「叫び」(1893年制作)の作者として取り上げられることが多い。ムンクは版画家としても歴史に残る作品を数多く残しており、代表作には数千万円の値が付くものもある。そのひとつ、油彩と同時期にリトグラフで制作された「マドンナ」(1895年)は、精子の縁取りとマドンナを上目遣いで見る胎児が描き込まれるという、スキャンダラスな側面を持った作品である。ムンクは晩年になるまで、自作品がより多くの人に接することに関心を持っていたようで、版画の限定数に拘っておらず、多くの作品は少部数刷られただけであったが、3000万円という高額で取引されることもある「マドンナ」に関しては、3000枚という、ポスター並みか、それ以上の数が刷られたとされている。その大半はオスロのムンク美術館が所蔵しており、美術館の購入予算を捻出するために、年に数枚(?)づつ、オークションを通じて売りに出されているとか。そんな版画を購入するなどという大それた野望は抱いてはいないが、何かしら手元に置いて眺めてみたいという淡い希望を持っていたところ、アメリカの古書店から、ムンクのドライポイントによる銅版画「男の頭部(Head of Man/Sch.243 Männerkopf)」が扉絵として挿入されたクルト・グレーザー(Curt Glaser, 1879-1943)のモノグラフ「Edvald Munch(von Curt Galser)」の初版本の案内があった。この作品はもとは1906年に制作されたものだったが、1917年の初版および1918年の再版に新たにオリジナルのドライポイントとして刷られた。グレーザーが1918年にムンクに出した手紙によると、この本の発行部数は2000部となっており、作品の質はさておき、「マドンナ」より少ない。とは言え、その当時ムンクの版画作品に関する資料(注1)は、ハンブルクの裁判官で美術愛好家のグスタフ・シーフラー(Gustav Schiefler, 1857-1935)が編纂した二巻からなる版画目録のリプリント(1974年)しか所有しておらず、それには図版が掲載されていなかったため、図柄も分からぬまま注文を出すことになった。肖像画の名手でもあったムンクらしい(?)、どこか病的なものを感じさせるものを秘かに期待していたのだが、その価格からして望むべくもないことであった。ただ神経症的な気質が見て取れるところもあったので、納得はできた。

この本の著者であるクルト・グレーザーは、ドイツ ライプチヒ生まれのユダヤ系ドイツ人で、医者の肩書きも持つ美術史家、美術評論家として20世紀美術に関する研究書を数多く著している。第二次世界大戦の勃発とともにニューヨーク市に移住している。出版元は同じくユダヤ系ドイツ人で、ベルリンで出版(1898~1936年迄)と画廊経営(1898~1901年迄)を行なっていたブルーノ・カッシーラー(Bruno Cassirer, 1872-1941)である。ムンクとカッシーラーとの関係を、1983年に愛知県立美術館で開催された『ムンク展』の図録に付けられた年譜(市川正憲・松本透編)等から拾い出してみると、ムンクとカッシーラーが密接な関係にあったことが見えてくる:

ムンクは1892年からたびたびベルリンに滞在しており、その年の11月に早くもベルリン美術家協会から招待を受けて油彩画の最初の展覧会を開催している。

1903年1月:ブルーノ・カッシーラーと従兄弟のパウル・カッシーラーがハンブルクでムンクの版画展を開く。
1904年:ベルリンのブルーノ・カッシーラーとドイツでの版画の独占販売契約を結ぶ。
1905年1月:パウルが経営するカッシーラー画廊で『肖像画展』を開く。
1907年:カッシーラー画廊で二度(1月~2月と9月~10月)個展を開催。
1912年:この本の著者であるクルト・グラーゼルと接触を持つ。12月にカッシーラー画廊で個展を開催。
1917年:この本の初版がブルーノ・カッシーラーから出版される。翌1918年に再版される。
1920年3月:カッシーラー画廊で個展を開催。
1921年4月:カッシーラー画廊で個展を開催。
1933年4月:ヒットラーが国家首相に任命された三ヵ月後、ドイツ学生協会が「ユダヤ人の知識の偏重」を攻撃する。
1935年5月:(カッシーラーと直接関係したのか分からないが)「ユダヤ人の知識の偏重」を攻撃は、「非ドイツ的魂への抵抗」の運動となり、ドイツ国内の本のうち、ナチズムの思想に合わないとされた「非ドイツ的」書物25000巻に対して焚書を行なう。
1936年:ブルーノ・カッシーラーを含むユダヤ系の印刷業者は組合から排除され、この年を最後に出版が出来なくなる。
1937年:ドイツ国内の公共的コレクションに所蔵されていたムンクの作品82点が“退廃芸術”の烙印を押され、ナチスに押収される。1939年1月、オスロでナチスが押収した油彩14点、版画57点のオークションが行なわれる。
1938年:ブルーノ・カッシーラーは新天地を求めてイギリスに渡る。

●作家:Edvald Munch(1863-1944)
●種類:Monograph
●著者:Curt Glaser(1879-1943)
●題名:Edvald Munch von Curt Galser(First Edition, 1917)
●サイズ:262x195mm
●出版者:Bruno Cassiere, Berlin
●制作年:1917
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巻頭。本文は“ひげ文字”などと呼ばれる書体、フラクトゥールで印刷されているので、ドイツ語に慣れ親しんだ人でないとお手上げである。
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「叫び」のリトグラフ・ヴァージョン、1895年

注:

1.ムンク美術館の版画と素描の上級学芸員であるゲルト・ヴォール(Gerd Woll, 1939-)が編纂した版画のレゾネ『Edvard Munch The Complete graphic Works』(Harry N.Abrams, Inc. New York, 2001)によって、ムンクの版画作品の全貌が明らかになった。

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by galleria-iska | 2016-12-18 20:14 | その他 | Comments(0)


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