ガレリア・イスカ通信

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2017年 06月 27日

パウル・クレーの展覧会図録「L'Univers de Klee」(1955)

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日本での知名度の高さはヨーロッパのそれを凌ぐとさえ言われ、人気、評価ともに高い作家として幾度となく展覧会が開催されているスイス生まれのドイツ人画家パウル・クレー(Paul Klee, 1879-1940)。しかしそれは、もっぱら鑑賞の対象としての存在であり、良品ならば数十センチぐらいの水彩画でも数千万円を超えるのだから、購入してまで愉しもうという者は少ない。ならば版画でも、と思っても、初期の銅版画は軽く一千万円を超え、署名入りのもので百万円を切るものは僅かしかないのだから、おいそれと手を出すことはできない。せめてスイスのコルンフェルト画廊(Verlag Kornfeld und Klipstein, Bern)が1963年に刊行した版画のレゾネ「Verzeichnis des graphischen Werkes von Paul Klee」(限定2500部)ぐらいはと思えど、これがまた絶版で、古書価格15万円以上と、庶民には縁遠いものとなってしまっていた。ところが2005年に1200部限定、280スイス・フランで再販されたことで、初版の価格は暴落、美術館、図書館、大学等の公的機関への納入を当て込んでいた業者には申し分けないが、今は比較的安価で手に入れることができるようになった。

自らも絵画収集家であったユダヤ系ドイツ人画商ハインツ・ベルクグリューン(Heint Berggruen, 1914-2007)-日本の美術界(?)ではベルグランと呼ばれている-は1936年、ナチ政権から逃れるためにアメリカに移住、大学でドイツ文学を学び、美術批評家として働いた後、美術館に奉職。1940年、彼と同じように、ナチ政権からアメリカに逃れてきた避難者からクレーの水彩画を100ドルで購入したのが、後にクレーを収集する切っ掛けとなった。第二次世界大戦後、アメリカ陸軍の一員としてドイツに赴任した後、パリに移住。1947年、パリのユニヴェルシテ通り(Rue de l'Universite)に画廊の前身となる挿絵本を扱う書店を開き、その後リトグラフも扱うようになる。1952年、パウル・クレーの版画展を開催、その際、画廊の最初の図録『Collention Berggruen』を制作・刊行した。それから3年後の1955年、水彩、グアッシュ、デッサンによる展覧会「L'Univers de Klee」を開催。このポケットサイズの図録はその際に刊行された画廊12番目の図録である。以前所有していたものは告知用ポスターと一緒に手放してしまったのだが、最近になって、2010年にスウェーデン人美術収集家(Staffan Ahrenberg)の手に渡り、2012年に美術出版社として再出発を果たしたカイエ・ダール(Cahiers d'Art)から、資料として残されていたものを運良く購入することが出来た。表紙には、告知用ポスター(註1)にも使われている、色彩のパッチワークとも言える1927年制作の水彩画「Klang der südlichen Flora(南方の花の音色」(註2)が使われているのだが、原画のサイズに合わせるためか、図録の表紙に折り返し(袖)を作って収めている。印刷はパリのムルロー工房(Imp. Mourlot, Paris)である。クレーのこの作品は、「魔方陣」と呼ばれる四角を規則的に組み合わせて構成された抽象性の高い作品のひとつで、見る者に音楽におけるリズムやハーモニーに似た感覚を覚えさせる。図録にはクレーの作品に寄せた、シュールレアリスムの運動に参加した詩人のひとり、ジャック・プレヴェール(Jacques Prévert, 1900-1977)による一編の詩が添えられ、またバウハウス時代のクレーからシュールレアリスムの運動の中心的役割を担った詩人のポール・エリュアール(Paul Éluard, 1895-1952)に宛て、詩人から送られた詩集への謝意や挿絵本制作の申し出などが綴られた、1928年4月21日付の手紙のファクシミリが綴じ込まれている。

前にも書いたことがあるが、ベルクグリューンは展覧会を開催する一方、現代作家の版画作品の出版も行い、販売方法に、当時としては画期的な通信販売の手法を取り入れ、世界中の顧客や業者向けに、図録とほぼ同じフォーマットで作られたカタログ『Maitres-Graveurs Contemporains』(1963~1993) をシリーズ化して刊行している。初号(Reproduction of Picasso's linocut "Toros Vallauris 1958")と最終号(White Cover)を除き、画廊で個展を開催した作家によるオリジナル・リトグラフを表紙に用いている。ベルクグリューンは1990年、収集と取引に専念するために、画廊の経営権を当時助手を務めていたアントワーヌ・マンディアラ(Antoine Mendiharat)に譲渡している。

●作家:Paul Klee(1879-1940)
●種類:Catalogue(Berggruen Collection No.12)
●題名:L'Univers de Klee
●サイズ:220x118mm(220x 363mm)
●技法:Lithographic cover printed by Mourlot, Paris
●発行:Berggruen & Cie, Paris
●制作年:1955
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註:

1.
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図版:図録の表紙と同じイメージを使って作られた告知用ポスター。サイズ:644x474mm、印刷:ムルロー工房、1955年。このポスターの複製(?)がニューヨーク市の《Penn Prints, New York》で作られていて、それにはシート下部に印刷所のムルロー(Mourlot)の名が記されていない。ポスターは以前所有していた図録と共に手放してしまったのだが、そういうものに限って、被害妄想かもしれないが、評価が高くなるようだ。ニューヨーク近代美術(MoMA)には版画作品と共に、このポスターが収蔵されている。


2.
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図版:ベルクグリューン画廊での展覧会以降に購入されたこの水彩画「Klang der südlichen Flora」(230x300mm)は2003年11月6日、ニューヨーク市のサザビーズ(Sotheby's)で開催されたオークション『Impressionist & Modern Art, Part Two』に出品され、40万ドル(手数料込み)で落札されている。来歴は以下の通り:

Provenance:
Lily Klee, Bern(1940-46)
Klee-Gesellschaft, Bern(from 1946)
Galerie d'Art Moderne, Basel
Berggruen & Cie, Paris
Acquired by the Grandfather of the Present Owner circa1955~65
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# by galleria-iska | 2017-06-27 18:18 | 図録類 | Comments(0)
2017年 06月 15日

ユーサフ・カーシュの写真集の出版案内「Portraits of Greatness」(1959)

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アルメニア系カナダ人の写真家ユーサフ・カーシュ(Yousuf Karsh, 1908-2002)は1908年、アルメニア人の両親のもと、オスマン帝国南東部の都市マルディンに生まれる。年譜によると、14歳の時、オスマン帝国によるアルメニア人虐殺を避け、家族でシリアのアレッポに移り住む。17歳の時、写真家であった叔父を頼り、ベイルート(Beirut)から船に乗り、29日間の航海を経て、1925年12月31日、ヨーロッパに最も近いカナダ東海岸ノバスコシア州の州都ハリファックス(Halifax)に到着。医者になる夢を持ち、学校に通うが、叶わず、叔父のスタジオを手伝う。叔父から貰った小さなカメラで撮影した子供のいる風景が賞を取り、50ドルを手にする。カーシュの才能を認めた叔父の紹介で、友人のアルメニア人で、ボストンに住む東部では有名な肖像写真家ジョンH.ガロ(John H. Garo)に師事し、美術学校の夜間クラスに通い、レンブラントやヴェラスケスといった巨匠の肖像画を学びながら、写真に関する様々なことを学ぶ。修業は当初半年間であったが、ガロの好意で3年間共に過ごす。1931年にボストンを離れ、カナダの首都オタワに移り、小さなスタジオを持つ。この時、自分が描いた写真家としてあるべき姿をカーシュは次のように語っている:
My interest lay in the personalities that influenced all our lives, rather than merely in portraiture. Fostered by Garo’s teachings, I was yearning for adventure, to express myself, to experiment in photography.
カーシュの写真家としての最初の仕事はアマチュア劇団の舞台撮影で、照明の効果に大きな関心を持つ。 1936年、カナダを公式訪問した最初のアメリカ大統領であるフランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt, 1882-1945)が、当時カナダ総督であったトゥイーズミュア男爵(Lord Tweedsmuir )と首相のマッケンジー・キング(Prime Minister Mackenzie King)と協議するためにケベックを訪れた際に、招待を受け、この重要な来賓者の撮影を行った。これが報道写真への最初の足掛りとなると共に、早晩、後援者、友人となる首相のキングとの最初の出会いとなった。そのキングの計らいで1941年、後にライフ誌『Lefe』の1945年5月21日号の表紙を飾ることとなる、ウィンストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill, 1874-1965)肖像写真を撮影する機会を得る(註1)。この写真が切っ掛けとなり、カナダ政府はカーシュを英国に派遣し、各界の著名人の肖像写真を撮影させる。それ以来、何代ものアメリカ大統領を初めとし、ジョルジュ・ブラック、ジャン・コクトー、パブロ・ピカソ、ジャコメッティ、シャガール、ジョアン・ミロ、ヘンリー・ムーア、スーラージュ、ジョージア・オキーフ、ザッキン、コールダー、アンディ・ウォーホル等の美術家や、小説家のアーネスト・ヘミングウェイ、アルベール・カミュ、日本人では、尾崎行雄(1950年)、川端康成(1969年)、湯川秀樹(1969年)など、世界中のあらゆる分野の人々の肖像写真の撮影を行う。カーシュは被写体が生活・活動している現場での撮影を旨としており、160キロもの撮影器材とともに世界各地を旅して回った。撮影にはエイト・バイ・テン(8x10)の大型ビューカメラを使用し、ボストン時代に巨匠の絵画に学んだ成果を生かし、綿密に計算されたライティング、セッティング、ポーズで撮影される肖像写真は、濃密な影と光が、被写体のパーソナリティーを見事に浮き立たせている。

●作家:Yousuf Karsh(1908-2002)
●種類:Announcement of publication
●サイズ:plate:306x248mm, folio:330x272mm(330x538mm)
●技法:Sheet-fed gravure
●発行:Thomas Nelson & Sons, London
●制作年:1959

以前、カーシュの代表作のひとつであるアーネスト・へミングウェー(Ernest Miller Hemingway、1899-1961)の肖像写真「Ernest Hemingway」(1957)のオリジナルプリント(Gelatin silver print)を手に入れたことがあったが、光沢のないマットな画面は、微細な粒子の集合による光と影が深い諧調を生み出し、へミングウェーの、漁師のそれを思わせる、年輪を重ねた精悍な風貌を漆黒の背景の中に浮かび上がらせ、思わず息を呑んだ覚えがある。1959年に刊行されたカーシュの写真集「Portraits of Greatness」の出版案内にサンプルとして挿入されているチャーチルの肖像写真は政界から引退した翌年の1956年に撮影されたもので、1941年に撮影されたものと比べると、随分と老けて見えるし、疲れた表情も見て取れる。写真は、オランダの紙幣の印刷で知られる1703年創業のハーレムの印刷所ヨー・エンスへーデ・ゾーネン(Joh.Enschedé Zonen)で、〈Sheet-fed gravure〉という印刷方法で複製されているのだが、その表情はフォトグラヴュールと同じマットな仕上がりで、オリジナルプリントの質感をかなり再現している。出版案内とそれを入れた封筒には簾の目紙(laid paper)が使われている。購入先からは限定19部と言われているが、はたして。

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The Rt.Hon.Sir Winston Leonard Spencer Churchill, KG.,P.C.,O.M.,C.H.
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裏側に題名と撮影時のエピソードが記されている
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註:

1.
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図版:1941年に撮影した肖像写真を表紙に使った『ライフ(Life)』誌(1945年5月21日号)。撮影の際のエピソードがこちら:(以下引用)
Karsh asked Churchill to remove the cigar in his mouth, but Churchill refused. Karsh walked up to Churchill supposedly to get a light level and casually pulled the signature cigar from the lips of Churchill and walked back toward his camera. As he walked he clicked his camera remote, capturing the ‘determined’ look on Churchill’s face, which was in fact a reflection of his indignantcy. Karsh recounted: “I stepped toward him and without premeditation, but ever so respectfully, I said, ‘Forgive me, Sir’ and plucked the cigar out of his mouth. By the time I got back to my camera, he looked so belligerent he could have devoured me. It was at that instant I took the photograph. The silence was deafening. Then Mr Churchill, smiling benignly, said, ‘You may take another one.’ He walked toward me, shook my hand and said, ‘You can even make a roaring lion stand still to be photographed.’”

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# by galleria-iska | 2017-06-15 13:40 | その他 | Comments(0)
2017年 06月 04日

ホルスト・ヤンセン木版画総目録「Horst Janssen Holzschnitte 1957-1961」(1987)

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日々の暮らしが同じことの繰り返しになってしまうと、月日があっという間に過ぎていく。今日は六月四日、虫の日とやらである。道路建設や宅地開発により居場所を失くし消えていった虫たちを供養する日ではない。虫と人間の共存を目指し、漫画家の手塚治虫(Osamu Tezuka, 1928-1989) の呼びかけで設立された日本昆虫クラブが記念日として提唱しているが、国民の関心はさして高くない。間違っても国民の代表たる国会議員が立法府である国会の場で虫の生存権を議論することはないだろう。ならばと、虫たちは人間のために鳴くのを止めてしまったに違いない。新緑の大空を自由に飛ぶ小鳥の囀りが耳に心地好い。それもいつまで続くのだろうか。

ホルスト・ヤンセン(Horst Janssen, 1929-1995)の契約画廊であるハンブルクのブロックシュテット画廊(Galerie Brockstedt, Hamburg)は、画廊設立30周年の1987年、ヤンセンの版画家としての出発点となった木版画の総目録(カタログ・レゾネ)を刊行。ヤンセンが1957年から1961年にかけて制作した多色刷り木版画作品全53点を収録。また、ヤンセンが1957年にヴァールブルク通りの自宅で開いた私的展覧会の招待状と告知用ポスター、同じ年、ブロックシュテット画廊の前身であるハノーファーの近代絵画画廊(Galerie für Moderne Kunst, Hannover)での展覧会の際に制作した招待状と告知用ポスターも併せて収録している。1960年代後半に現れる亜鉛版エッチングによるポスターを予見させる招待状は、出品目録も兼ねており、自宅での展覧会の招待状には当時の販売価格も記載されていて、興味深い。告知用の二つのポスターは、後にヤンセンのライバルとなるパウル・ヴンダーリッヒ(Paul Wunderlich, 1927-2010)の協力でリトグラフで刷られているが、摺刷数は100枚足らずと少なく、今やコレクターズアイテムとなっている。近代絵画画廊の方のポスター(註1)は以前このブログで取り上げたことがあるが、その招待状「Einladung zur Ausstellung Farbige Holzschnitte in der Galerie für Moderne Kunst, Hannover」(Vogel. 407, 211x162mm)はポスター以上に入手が難しく、もうかれこれ20年近く探しているが、未だ一度も目にしたことがない。

●作家:Horst Janssen(1929-1995)
●種類:Catalogue Raisonne(Werkverzeichnis)
●題名:Horst Janssen Farbholzschnitte Werkverzeichnis 1957-1961
●サイズ:285x285mm
●技法:Offset
●発行:Galerie Brockstedt, Hamburg
●制作年:1987
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ハノーファーの近代絵画画廊で開催されたホルスト・ヤンセンの多色刷り木版画展の招待状「Einladung zur Ausstellung Farbige Holzschnitte in der Galerie für Moderne Kunst, Hannover」(Vogel. 407, 211x162mm)
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同展の告知用ポスター「Ausstellung Farbige Holzschnitte」(M.S.2), 966x644mm
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註:

1.
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●作家:Horst Janssen(1929-1995)
●種類:Poster(Plakat)
●サイズ:966x644mm
●技法:Original color lithograph
●限定:under 100 copies
●発行:Galerie für moderne Kunst(Brockstedt), Hannover
●印刷:Artist with assistance of Paul Wunderlich
●制作年:1957
●目録番号:Meyer-Schomann. 2
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# by galleria-iska | 2017-06-04 17:53 | ホルスト・ヤンセン関係 | Comments(0)
2017年 05月 08日

アンディ・ウォーホルの写真集「Andy Warhol Photographs」(1987)

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アンディ・ウォーホル(Andy Warhol, 1928-1987)の生前最後の個展は、ニューヨーク市のロバート・ミラー画廊(Robert Miller Gallery, New York)で、1987年1月6日から31日にかけて開催された写真展「Andy Warhol Photographs」であった。これはその展覧会に合わせて刊行された写真集。1976年以降に制作された同じ図柄の写真-4枚組のものが多いが、6枚組、9枚組、12枚組ものもある-を白い糸で縫い合わせて作られた「縫合写真(Stitched Photographs)」77点を収録している。本の装丁は、30年のキャリアを持ち、この後ブルース・ウェーバーの写真集「Bruce Weber」(Alfred Knopf, New York, 1989)のデザインと編集を手掛けることになるブック・デザイナーのジョン・シャイム(John Cheim)によるもの。シャイムは1997年、多くの作家との仕事を活かし、ニューヨーク市にハワード・リード(Howard Read)とギャラリー、シャイム・アンド・リード(Cheim & Read)を設立している。

この写真集は1990年代にニューヨーク市にある古書店の在庫リストからタイトルだけで購入したもので、購入時の価格は50ドルだったと思う。写真集がブームになった時期には200ドル以上の値が付いたが、今は100ドル前後というところか。画像を見てのとおり、黄色フェチの自分には至福の一冊となった。ダストカバーはなく、黄色一色の表紙にエンボスが施された黒地に白色のレタリングが立体感を生み出しているのだが、そのアイデアの根底にはマン・レイの写真とポール・エリュアールの詩によるコラボレーション「ファシール(Facile)」(1935年)(註1)があったのだろうか。

そのウォーホルの写真作品を入手できる最初で最後のチャンスは、現在では優に100万円以上しているが、1987年、ウォーホルが死の直前にスイスの美術誌『パーケット(Parkett)』からの依頼で制作した120部限定の縫合写真(four stitched-together photographs of skeletons)(註2)であった。それは4点の骸骨の写真を縫い合わせたもので、多少高かったものの、まだ手が届きそうに思えた。が、ルオーの骸骨をモチーフとした版画作品の評価が頭をよぎり、決断できなかった。作品はウォーホルが病院に入院する直前にファクトリーから発送され、ウォーホルが亡くなった次の日(1987年2月23日)に出版社に届けられた。ウォーホル自身自己の死を予感していたわけではないが、期せずして「死を想え-メメント・モリ(Memento Mori)」に繋がるテーマを選んでしまったことになる。

同じイメージを反復するというウォーホルの手法は、お馴染みのものであるが、いまひとつ理解できないところがある。ましてやそれを“糸”で縫い合わせるという行為の意図については。反芸術を標榜するかのように、『ぼくは退屈なものが好きだ』という言葉を残したウォーホルは、パターン化された表現を繰り返し用いることで、大量生産という消費社会の特性を取り込みながら、全体を抽象的なひとつの光と影のコントラストに還元し、一回性を重んじる旧来の芸術が目指してきたものとは対極的な地平、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp, 1887-1968)のレディ・メイドを継承するポップ・アートの雄として立っている。糸で縫うというアイデアについては、美術史家のウィリアム・ガニス(William Ganis)の著書(註3)によれば、彼の友人で、スタジオ助手、旅行同伴者の写真家クリストファー・マコス(Christopher Makos, 1948-)が1976年から行なってきたものを拝借(ウォーホルは他の作家のアイデアを自己の表現に取り入れ、それを自らのものとしている。そのことは草間弥生や東典男が証言している)したもので、ウォーホルは1982年、ベルニナ・ミシン(Bernina Sewing Machine)を購入し、マコスが勧誘してきた服飾学校生ミシェル・ラウド(Michele Loud)を助手と使い、縫合写真の殆んど全てを担当させている。その最初の成果となったのが、1987年のロバート・ミラー画廊での個展であった。この個展は批評家の賞賛を浴び、98点の縫合写真が売れた。それに気を良くしたウォーホルは亡くなるまで制作を続けた、とある。

縫合写真を見ていて気になるのは、縫いつけを示すためであろう、写真の角が合わさる部分に縫い糸を意図的に残しているところである。それはコンセプトとしての縫合写真を成立させるため、あるいはオブジェとしての量感というか物質感を持たせるための作為であったのだろうか。

●作家:Andy Warhol(1928-1987)
●種類:Catalogue
●著者:Stephen Koch
●サイズ:290x232mm
●技法:Offset
●発行:Robert Miller Gallery, New York
●制作年:1987
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註:

1.
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図版:Man Ray et Paul Éluard, 『Facile』. Poésies de Paul Éluard. Photographies de Man Ray. Paris, Éditions G.L.M., 1935.

2.
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図版:Andy Warhol:Photo Edition for the Parkett(Parkett No.12), 1987. Multiple of four machine-sewn gelatin silver prints, 248x199mm, Ed.120

3.William V. Ganis, 『Andy Warhol’s Serial Photography』. Cambridge, 2004
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# by galleria-iska | 2017-05-08 22:35 | 図録類 | Comments(0)
2017年 05月 03日

クルト・セリグマン版画展の招待状「Berggruen & Cie」(1998)

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中世の吟遊詩人トルバドゥールや“死の舞踏”を想起させる儀式に没頭する騎士、あるいは故郷であるバーゼルのカーニヴァルに触発された幻想的な作風で知られるスイス生まれのドイツ系アメリカ人画家で版画家そして文筆家でもあったクルト・セリグマン(Kurt Seligmann, 1900-1962)は、詳細な年譜によると、1919年にジュネーヴの美術学校(École des Beaux-Arts, Genève)-そこで、たった3日で退校することになるアルベルト・ジャコメッティ(Albert Giacometti, 1901-1964)と出合う-で学び始めるが、1920年、家具店を経営をしていた父親の健康が悪化したため、バーゼルに戻り、家具店の経営に携わる。1926年に観た展覧会が切っ掛けで芸術探求への情熱が再燃、1928年には反対していた父親もその道に進むことを認めたため、家具店の仕事から退き、フィレンツェへ旅立ち、美術アカデミー(Accademia di Belle Arti)に入学、その年の残りをそこで学ぶ。1929年、パリに渡り、キュビスム的な作風で知られるアンドレ・ロート(André Lhote、1885-1962)が主催するAcadémie André Lhoteに入学、そこで絵画を学ぶが、しばらくしてアカデミー色の薄い指導を行なうAcadémie de la Grande Chaumiéreに移る。この時期に彼にシュルレアリスムを紹介し助言者となるアルザス地方ストラスブール出身の画家で詩人、彫刻家のジャン・アルプ(Jean Arp、1886-1966)と出合い、アルプを通してもうひとりのシュルレアリスムの画家マックス・エルンスト(Max Ernst)とも知り合う。そしてアルプとフランスの抽象画家ジャン・エリオン(Jean Hélion, 1904-1987)の招待で、抽象創造運動、アブストラクシオン・クレクレアシオン(Abstraction-Création Art Non Figuratif)にグループに加わる。1935年にアブストラクシオン・クレクレアシオンに出品していた日本人の前衛画家、岡本太郎(Taro Okamoto, 1911-1996)と「ネオ・コンクレティスム(新具体主義)」を提唱する。その一方で、作品はシュルレアリスム的傾向が強くなり、1934年、ジャック・ヘロルド(Jacques Hérold), オスカー・ドミンゲス(Óscar Domínguez,) リヒャルト・エルツェ(Richard Oelze)、ハンス・ベルメール(Hans Bellmer)と共に、正式にシュルレアリスムのサークルのメンバーとなる。セリグマンの名を知らしめることになったのは、1938年にパリで開催されたシュルレアリスム国際展(Exposition internationale du surréalisme)(註1)に出品したオブジェ「超-家具(Ultra-Meuble)」で、女性の四本の脚を生やしたテーブルとも椅子ともつかぬエロティックな作品である。その翌年の1939年9月、第二次大戦の勃発を受けて、セリグマンは、1920年から兄弟で美術商を営んでいるカール・ニーレンドルフ(Karl Nierendorf, 1889-1947)がベルリンに開いた画廊(Galerie Nierendorf GmbH, Berlin)のニューヨーク支店とも言える画廊(Nierendorf Gallery, New York)での展覧会「Kurt Seligmann:Specters 1939 A.D.—13 Variations on a macabre theme」への出席を口実に、ドイツ人の妻Arletteを連れてアメリカに移住。それには父親がユダヤ人であったことが背景にあるのではないかと思われるが、シュルレアリストとして最初の亡命者となった。そこでアメリカの美術史家で当時ニューヨーク近代美術館(MoMA)の館長であったアルフレッド・バーの協力を得て、ナチスの迫害を逃れるために、多くの画家や作家(註2)の移住を促進する役割を果たした。また展覧会活動も盛んに行ない、著作も発表する。晩年はニューヨーク市から一時間ほどぼ距離にあるシュガー・ローフの農場で過ごすことが多くなり、自殺との説もあるが、鳥の餌を食べるネズミを撃つ準備をしているとき、凍った階段で滑った際にライフル銃が暴発、1962年1月2日に亡くなっている。

これはパリのベルクグリューン画廊(Berggruen & Cie, Paris)で1998年に開催されたクルト・セリグマンの版画展への招待状である。二つ折りの両端を袖のように折り込んだ表紙の内側に二つ折りの招待状を綴じ込んだ冊子風のユニークな造りとなっている。この時の画廊のオーナーは三代目となるルーヴル美術学校(L'Ecole du Louvre)で美術史の専門教育を受けた女性ディーラー、ソワジック・オドゥアール(Soizic Audouard)であった。前にも書いたが、オドゥアールは写真に関する鋭敏で緻密、かつ興味深い洞察力を持ち合わせており、ディーラーとして、写真史に残る重要な作品の収集を行いつつ、2001年に画廊を閉めるまで、シュルレアリスムの作家やそれを引き継ぐ現代作家の作品を取り扱った。彼女は以前に取り上げたベルクグリュンの最後の通信販売用カタログ「Maitres-graveurs contemporains」の発行者でもあった。日本では岡本太郎(Taro Okamoto, 1911-1996)との関係性やその著作『The History of Magic (邦題:魔法ーその歴史と正体)』(Pantheon Books, 1948)(註3)の方への関心が強く、版画家としてのセリグマンはあまり紹介されていないかもしれない。私自身、未だセリグマンの版画作品を手にしたことがないが、彼の作品の複製を何点か掲載しているパリのマーグ画廊(Galerie Maeght, Paris)で1949年に開催されたセリグマンの里帰り展の図録とも言える美術誌『鏡の裏(Derrière le Miroir)』の第19号「Kurt Seligmann」(註4)が手元にある。それを見ると、セリグマンの画風は、アンドレ・マッソンの影響を受けたものであるように見えるのだが。

●作家:Kurt Seligmann(1900-1962)
●種類:Invitation
●サイズ:112x60mm(112x240mm)
●技法:Offset
●発行:Berggruen & Cie, Soizic Audouard, Paris
●制作年:1998
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註:

1.展覧会に参加した作家:(Jean Arp, Hans Bellmer, Victor Brauner, Andre Breton, Giorgio de Chiricom Rene Magritte, Andre Masson, Matta Echaurren, E.L.T. Mesens, Joan Miro, Richard Oelze, Meret Oppenheim, Wolfgang Paalen, Pablo Picasso, Man Ray, Kurt Seligmann, Yves Tanguy, Raoul Ubac)等。

2.セリグマンの働きでアメリカに亡命したシュルレアリスト:アンドレ・ブルトン夫妻(André Breton and his wife)、アンドレ・マッソン(André Masson), ポール・エリュアール(Paul Eluard), そしてピエール・マビーユ(Pierre Mabille)

3.フランス語版:「Le Miroir de la Magie. Histoire de la Magie dans le monde occidental」(Fasquelle Éditeurs, Paris,1956)

4.マーグ画廊発行の美術誌『鏡の裏(Derrière le Miroir)』第19号「Kurt Seligmann」1949年(第二版)。3点のカラーリトグラフと2点のモノクロリトグラフを収録。380x280mm

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図版:展覧会の告知用ポスター、560x390mm、マーグ画廊、パリ、1949年
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# by galleria-iska | 2017-05-03 12:51 | 案内状/招待状関係 | Comments(0)